[1]はじめに
2022年12月5日に都庁記者クラブ会見場に於いて、中学校英語スピーキングテスト(ESAT-J)の結果を都立高校入学者選抜に使用しないことを求める会見が開かれました。主催者の英語スピーキングテストの都立高校入試への活用中止のための都議会議員連盟(略称 英スピ議連)のとや英津子さんからその会見への出席と発言を求められましたので、この件に関するわたくしの見解を述べました。その発言原稿は別途公開済みです。
そのとき取り上げた3つの論点の一つに「出題内容の中学校学習指導要領逸脱の問題」があります。その一部を以下に再録します。
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今回のPART AのNo. 2(音読問題)に「Do you drink tea? You may have seen that there's a new tea shop next to our school.(後略)」という一節が出てきます。このうち、下線を付した部分の表現は中学校で学ぶ範囲を逸脱しています。
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その翌朝の「教育新聞」にはこの点についての「都教育庁の担当者」の見解が載っています。まずは、そのくだりをご覧ください。
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都教育庁の担当者は教育新聞の取材に対し、「一般論として都立高校の入試問題は、中学校の学習指導要領から出題することが適切ではあるが、今回の問題についてはmay、have、seenのいずれの単語も既習事項であり、意味を取ることもできる。文法を理解していなければ解答できないという内容ではなく、問題があるものとは認識していない。英語として自然な流れになるような文章を出題した」と説明している。
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わたくしはこの見解を読んで、怒りに震えました。不誠実であると同時に、英語教育関係者の発言とは思えない乱暴で、杜撰な見解だからです。これは「学習指導要領逸脱」という問題に留まるものではありません。
順を追って、お話しします。
[2]不誠実な対応
まず、冒頭の「一般論として都立高校の入試問題は、中学校の学習指導要領から出題することが適切ではあるが、」の部分です。「が、」は不要です。「適切である」、そこで終わるべき文です。
これは入試問題の在り方といった問題ではありません。都教委自身が《出題は学習指導要領の範囲内で行います。だから、普段の学習をしっかりしていれば心配は要りませんよ》と中学生に伝えていたのですから、裏切り以外のなにものでもありません。
重要なことですので、この点について都教委のことばを引用しておきましょう。
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ESAT-Jは、中学校学習指導要領に基づき、東京都が定めた出題方針により、出題内容を決めています。したがって、授業で学習した範囲の中から出題します。
(ESAT-Jに関するQ&Aが東京都教育委員会のウェブサイト https://bit.ly/3iuEWnd)
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ESAT-Jが本来、アチーブメントテスト(学習達成度を測るためのテスト)であることを考えれば、この方針は当然のことです。
強弁を張ることは止めて、すなおに中学生たちに詫びて欲しい。そうでないと、生徒たちに向かって《人間だれしも誤りを犯すことはある。大切なことは自分が犯した誤りは素直に認め、同じ失敗を繰り返さないようにすることです》と言えなくなってしまいます。
[3]貧弱すぎる言語観・言語教育観
「都教育庁の担当者」の見解の先を見ましょう。
「今回の問題についてはmay、have、seenのいずれの単語も既習事項であり、意味を取ることもできる。文法を理解していなければ解答できないという内容ではなく、問題があるものとは認識していない」--- 絶対に見過ごすことができない、お粗末極まりない発言です。
じつは、5日の会見の原稿を用意していた時、《まさかとは思うが、ひょっとしたらこんなことも言いかねないな》と思って、こんな念押しもしておきました。
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念のために急いで付け加えておきますが、may have seenという表現形式は未習であっても、これは音読の問題であり、may、have、seenが既習であるのだから特段問題はないというのは反論にはなりません。音読するためにはその英文の成り立ちが理解できていることが必要だからです。
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一般の社会人ならともかく、英語教育の専門家であれば、これだけで十分意図は伝わると思ったのですが、そうはいかなかったようです。解説しましょう。
文全体を出しておきます。You may have seen that there's a new tea shop next to our school.です。この文は大きく分けて2つの部分から成り立っています。You may have seenとthat there's a new tea shop next to our schoolです。だから、文全体を一息に読むというのでなく、どこかで区切るとなったらYou may have seenの後で区切ります。後半部の先頭にあるthatは《これから節が始まりますよ》という合図をする語で、省略できるくらいですから、弱く読みます。節のなかにある、next to our schoolという部分は「学校の隣に」という意味の表現で、この4つの語でまとまりを作ります。
ということで、読むとなったら、こんな具合に区切ります。
You may have seen / that there's a new tea shop / next to our school.
こうやって区切るのは今見たようにこの文が成り立ち(構造)がそうさせるのです。その成り立ちは文法に従って形成されます。つまり、文法と意味と音声は有機的に結びついているのです。「文法を理解していなければ解答できないという内容ではなく」などとはあまりにも的外れです。
ついでながら付け加えておくと、外国語学習において音読が有効なのは音読によって先生や生徒自身が文法用語を使うことなく文法がどの程度身についたかを確かめることができ、まだ身についていないところがあれば、その部分を指導し直す、勉強し直すことができるからなのです。
ここまで読んでいただければ、「今回の問題についてはmay、have、seenのいずれの単語も既習事項であり、意味を取ることもできる。文法を理解していなければ解答できないという内容ではなく、問題があるものとは認識していない」という見解がいかに不見識で、文法・意味・音声の関係への理解に欠けていることを露呈するものであることをご理解いただけたのではないでしょうか。
May have seenという表現の性質を理解していれば、「~かもしれない」という話し手の推測を表すmayははっきりと、完了を表すhaveは弱く(場合によっては冒頭のhが脱落して 'veとなる)、そして、may have seenは全体として1つのまとまりになっていますので、一息に読むということがわかります。表現全体が既習でなければ、そんなことはわかりません。
そもそも、文法を理解していなくても音読はできるというのであれば、文の形にする必要すらありません。語のリストを提示し、順番に読んでもらえばよいのです。
この見解を伝えた「都教育庁の担当者」には音読問題の出題意図はなんであるのかを伺いたい。
もうみなさんお気づきでしょうが、may have seen 問題は単に学習指導要領逸脱の問題に留まるものではないのです。ESAT-Jの作成と実施に関わっている人たちの言語観と言語教育観がいかに皮相で、杜撰なものであるかを露呈しているのです。
前稿にも書きましたが、時系列に従って解答していくスピーキングテストの最初の部分(PART A)でこのような問題が生じたことが生徒たちに与えた影響を考えると、ことの重大さはこの問題を採点から除外するといった処置で対処できる中途半端な性質のものではありません。
[4]どうして英語の先生たちが声を上げないのか
ESAT-Jに関してわたくしのところにはたくさんのメールが届きます。内容はさまざまですが、最近、急激に増えているのが《どうして英語の先生たちがもっと大きな声をあげないのか》という疑問です。
答えは簡単です。キーワードは組織の上からのしめつけ(と組織の上への忖度)です。先生たちには校長や副校長が睨みをきかせます。校長や副校長には教育委員会が目を光らせています。教育委員会は文部科学省の顔色を窺います。声を上げたくても上げられないのです。校長ですら、ESAT-Jの入試利用がおかしいと思ってもそういう意見を述べることができない「苦しさをご理解いただけないでしょうか」(現役校長からのわたくし宛へのメール)と泣き言を言い出す始末なのです。
このような事情を考えると、ESAT-Jの結果を都立高校入学者選抜に使用しないようにするには組織の上の方に位置する人による政治決断を待つしかないようにも思えます。ここで、なにがなんでも現在の方針のまま、ことを強行し、学校英語教育の歴史に汚点を残すか、土壇場での決断で未来に希望を繋ぐか、まさに重要な岐路に立っています。
【原稿を久保野雅史神奈川大学教授と亘理陽一中京大学教授に読んでいただき、貴重なコメントをいただきました。記して感謝いたします。言うまでもなく、文責はひとえに大津にあります。】
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